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日本における経済教育の問題:Main Issues on Economic Education in Japan [論文]

日本における経済教育の問題:Main Issues on Economic Education in Japan

篠原総一同志社大学教授の論文:Prof. Soichi Shinohara's Opinion

篠原総一「日本における経済教育の問題」

中学校、高等学校や段階では、「経済学」教育に走るのではなく、私たちの暮らしていく社会の「経済の仕組み」について生徒の理解を深めることを目指したい。そのためには、経済の制度や組織の名称をいたずらに記憶させるのではなく、それがどのような働きをし、あるいは機能していない場合には、その原因がどこにあるのか、生徒の考える力を育むという姿勢を忘れてはならない。

ところが、教育の中心を占める「教科書」には、改善の余地が目立つ。どの教科書も、制度や政策の名称と概要説明が断片的に並べるだけで、それぞれが社会の中で、どのようにつながり、それが何をもたらしているか、そのような「考えるヒント」を教員や生徒が教科書から学ぶことは難しい。

たとえば、高校「政治・経済」の国際経済の単元では、まず、リカードの比較生産費説の意味を、数値例を使って説明し、自由貿易がどの国にも便益をもたらすことを解くが、それに続いて、国際収支表の解説が入り、その後で、ガット体制下でのラウンド交渉から最近の2国間自由貿易協定まで、一連の自由貿易への取り組みの歴史が、それも名称だけずらずらと並ぶ。

しかし、この単元では、本来は、つぎのようなメッセージを生徒に伝ええたいはずである。まず、自由貿易の意義を理解する。ところが現実には、自由貿易が実現されれば、どの国にとっても、経済全体の利益が高まにもかかわらず、一部の既得権益者の声に押されて保護主義貿易が横行している。そこで、このような好ましくない状況から抜け出すために、各国は、これまで、様々な形で自由貿易の実現に向けて国際間協調を目指してきた。それがラウンド交渉や地域自由貿易協定、2国間自由貿易協定などの狙いである。元来は、この単元は、高校生に、このような一連の、制度、政策、国際協調の意味を理解させることをねらいたい。

ところが、ほとんどの教科書では、「比較生産費説の解説」と「自由貿易への取り組みの歴史」の間に、「国際収支表の解説」を挿入しているため、生徒がラウンド交渉、地域自由貿易圏、二国間交渉などの意味をつかむことは不可能に近い。さらに、教える側も、経済学を専門とする教員ばかりではない。歴史や地理、政治学などを専門とする社会科担当の先生に、単元の本当の意味を理解した上で授業を展開できるほど、教科書は親切にはできていない。

そのため、経済単元は、生徒にとって、社会の仕組みの意味を理解することはさておき、いたずらに制度や政策の名称を覚え、歴史的な出来事の順番を記憶するという、実に「面白くない」暗記科目になってしまう、としか考えられない。

その上、とくに高校生のレベルでは、大学入試が、経済教育を歪める原因になっている。大学側では、入試問題作成の際、教科書に書かれていないことは問わない、という暗黙の原則を守っている。だから、入試問題作成者は、教科書の記述内容の中から問題を作っていく。ところが、教科書を採用する側からは、入試に役に立たない教科書は採用を避ける傾向が強い。

このように、教科書に書かれているから入試に出る、一方、教科書は入試にでる問題をカバーするという、ある種の「囚人のジレンマ」に陥っている。そのため、教科書と入試が、共同で、経済単元の暗記科目化への拍車をかけているのではなかろうか。

また、日本では、自由な取引と競争を前提とする「市場経済」という制度の意味を、生徒が分かるように説明した教科書は見当たらない。価格が需要と供給が一致するように決まること、そのように価格が決まる制度の下では、限りある生産資源が効率的に利用される、それをアダム・スミスは「神の見えざる手に導かれて・・・」と言った、とまでは記述されているが、それがどのような意味で、さらにはどのようなメカニズムを通して実現されるのか、生徒が理解できるような解説は見当たらない。さらに、自由な市場活動に任せておけば経済の効率は達成されるが、経済格差が生れる、だから政府が市場はもたらす不平等や非公正を正す役割をになうという、やや納得しがたい二元論的な理解を植えつけ、さらには、そのような思い込みに基づいて授業を展開する教員も少なくないように見受けられる。

もちろん、「市場の失敗」に関する問題を無視することはできない。市場が、所得は資産の不平等をもたらす可能性のほか、独占、外部性、公共財、非対称情報などの理由によって資源の効率的配分に失敗する、だから政府などを中心にして制度や政策でどう対応すべきか、という問題の理解は不可欠である。しかし、だから、市場は不完全で、市場原理主義は好ましくない、という理解も好ましいものではない。実際、市場も失敗するが、それ以上に政府もまた失敗するケースが少なくないことを理解したい。現在、日本が直面する多くの問題、たとえば年金問題、行政の過度な介入や無駄の問題、誰の税を使ってどこにどれだけの道路を作るかといった問題など、いずれも、政府は、経済的な効率と社会的な公正からは程遠い結果をもたらしている。

したがって、「市場」と「政府」については、生徒たちに、両者は決して対立するものではなく、それぞれ効率と公正の問題にかかわりがあること、だからこそ、市場と政府の役割の、バランスのとれた見方を身につけられるよう、教材と授業の工夫をはかる必要がある。そのような観点から、中学・高校のレベルでも、市場の「見えざる手」の意味の理解は欠かせない。

経済教育のこのような改善に向けて、経済学研究者もまた、これまで以上に積極的な役割をはたすことができる。教科書の改善、中学・高校教員の研修など、貢献できることは少なくない。アメリカでは、相当数の経済学者が、教育のすべての段階での先生と生徒の経済リタラシーの向上を目的とする団体「NCEE(http://www.ncee.net/)」の活動に参加している。もちろん、目指すところは必ずしもアメリカの場合と一致しないかもしれないが、日本でも、経済学研究者の役割に期待したい。私どもは、最近、「経済教育ネットワーク」(http://www.econ-edu.net/)を立ち上げ、日本の経済学者どうし、経済学者と中学・高校の先生方、さらには私的および公的部門の経済教育専門家をネットワークで結ぶ試みに着手した。日本における中学・高校の先生や生徒、さらには一般の方々の経済リテラシーを高めるこのような活動に、できるだけ多くの方の参加を呼びかける次第である。

注:
この論文は、2008年8月に大阪と東京で開催された「先生のための夏休み経済教室」における篠原教授の講演内容をまとめたものである。この英文要旨は以下を参照:
http://www.glocom.org/opinions/essays/20080825_shinohara_economic/

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